SUZUKI YUYAの投機術

投機で経済的成功を求める投機家が随筆する「金融・経済の多岐に渡って活用できる投機術」

自分の人生を生きようとする者の転落

サマセット・モーム,エドワードバーナードの転落,

 先日、友人と今後どのように仕事をしていきたいかを話していたところ、「お前を見ているとエドワードバーナードの転落を見ているようだ」と言われた。

私はエドワードバーナードについて知らなかったもので「それはどういうことなんだ?」としつこく聞き返したが、ついには物語のあらすじだけしか教えてくれなかった。

ただ一つ「お前はエドワードではなくベイトマンだ」と言われたことが心に残り、この作品に対して非常に強い興味を持ったのだった。

 

 会話を終えて次の日、さっそく本屋に行ってこのサマセットモームの短編集にある「エドワードバーナードの転落」を読んだ。

この作品は20世紀に生み出された作品だが、20世紀も21世紀も変わらない労働の精神面について描かれている面白い作品だった。

それと同時に友人がこの作品を持ち出してきたのは私に対しての皮肉に違いないと確信したのだった。そして日本人の生き方の狭さに悲しみを抱いた。

 

 

エドワードバーナードの転落

 ところでこのサマセットモーム作「エドワードバーナードの転落」を読者の皆さんはご存知だろうか?

もしかすると教養ある人間にとってはそれこそシェイクスピアのように有名な作品なのかもしれないが、私はサマセットモームについてまったく知らなかったので、読者の皆さんを置いてかないようにあらすじと結末を簡単に説明しよう。

 

 アメリカ・シカゴで非常にリッチな家庭に生まれたエドワードとベイトマンという青年がいた。どちらも非常に熱心に働く男で、二人は幼馴染で親友であった。二人は必然にも美しい令嬢イザベルに恋をし、イザベルはエドワードを選んで婚約した。

このまま幸せが続くかのように思えた。ところがエドワードの家は破産してしまい、エドワードは再起するためにイザベルを残してフランス領のタヒチへ渡る。

2年後、心配になったベイトマンはエドワードを探しにタヒチに渡る。そこでエドワードを見つけるが、そこには簡単な仕事で食いつなぎながらも幸せそうに暮らしている様を見てしまう。

 

タヒチの大自然で悠然に暮らす生活に「魂を手に入れた」と喜ぶエドワード、それを見て「気が狂ってしまった」と思わざるを得なかったベイトマン。

貧乏ながらに精神の自由を手に入れたエドワード、忙しく働きながらも裕福であるベイトマン、エドワードバーナードとの転落とは相対する生き方を対比している作品である。

 

エドワードとベイトマンの生き方

 この物語の肝は、貧乏だけど精神的な自由を選ぶか、裕福だけど猛烈に働く道を選ぶか、現代に生きる労働者にとっては非常に身近で、言ってしまえば究極の選択を突き付けているところにある。

 

これだけだと漠然と聞こえるかもしれないので、時代背景をもっと掘り下げてみよう。この物語で外せないのは「シカゴ」と「タヒチ」という相対する二つの舞台だ。

シカゴと言えばシカゴ先物取引所が有名でウォール街と並ぶ重要な金融シティ。そしてタヒチと言えば美しい自然が残りながらも近代でフランスが占領した貧しい植民地でもある。

 

おそらくベイトマンの実家が破産してしまったのは1907年の大恐慌のせいではないかと思われる。1800年後半から1900年前半までのアメリカはまさに激動の時代、グレートゲームの真っただ中であったからだ。

金融街で働くものならばいつ破産してもおかしくない、それを補うにはとにかくガムシャラに働く、それしか生き残る術がない。そんな時代にエドワードとベイトマンは生きていたのだろう。

一方、タヒチも激動の時代を迎えてはいたが、こういった経済の中心地から離れた場所というのは騒音とは無関係に見え、また食いつないでいくだけであれば苦労しない環境であった。

 

現代となっては一日8時間の労働と日本の労働法で定められているが、この時代にはそんなものがあったとしても形だけ、現代人にとって気が狂ってもおかしくない環境だったに違いない。

そんな日々の生活で幸せを求めて戦い続けるベイトマン、嫌気が差し精神の自由を手に入れたエドワード、といった構図だろう。

多くの人がエドワードの生き方を望む

 断言しても良いがこの世にいる9割の人間はエドワードの生き方を望むだろう。

 

 日本の社会は精神の自由とはまったく無縁、かけ離れているのが現状だ。薄っぺらい道徳に、平均的な教育、単一の競争を得て社会人になる。

私のようにそこから外れれば正解とされる道が無い世界を行かなければならない。これはまるで、今までリングの上で闘っていたボクサーがストリートファイトで闘っていかざるを得なくなったようだ。

 

社会に出れば今度は過激な競争に晒される。代表的な出世競争もそうだが、その環境に居続けるための競争も発生する。評価経済では、経済に関わるものは全て他者からの評価から逃れる術はない。

食いつないでいくためには組織に属し、社会の歯車の一員となって組織を回さなければならない。他者からの評価に晒され続け、自分を強く抑制し続けながら、生きていかなければならない。

法で強制されているわけではないが、生きていくためには金が必要で、金を稼ぐためには歯車にならなければならない。精神の自由、とは程遠い世界である。

 

この実情の中、多くの人は精神の自由を望み、エドワードの生き方を望む。

誰だって出来るエドワードの生き方

  ついつい自分でも笑ってしまうほどの狭い人生観を書き上げてしまった。嘘だ。上記で書いたことは嘘である。さっき私が書いたことを真に受けた人は相当に幅の狭い生き方をしているので、早く目を覚ますべきだ。

 

リングの上で闘うとか、社会の歯車とか、生きていくためには金が必要とか、そんなものはよくわからない常識が定義したドグマである。

他者から評価されなくてもお金を稼ぐことは可能だし、ことセーフティネットが強い日本においては別に何もしなくても生きていける。

刑務所に入れば3食寝床つきであるし、刑務所に入りたくなければ誰かと交友関係を結んで専業主婦もしくは専業主夫になれば良い。

 

ここまで極端でないにしろ、半年間も真面目にやればフリーランスでも生きていけるぐらいにはお金は稼げる。

現に私は本格的に始めたライターで開始一か月も経たずして本業の収入の1.5倍を稼ぐことが出来た。

年収600万を目指すのであれば相応の努力はしなくてはならないが、年収200万で生きていくぐらないなら誰だって出来る。

 

そう、誰だって今すぐにエドワードのような生き方を出来るのだ。

日本人は精神的にはベイトマン、働き方はエドワード

 

 しかし私が言っていることと実情は違う。

 

多くの日本人がやりたくもない仕事に従事している。鬱々としながら寝床を出て出社し、反吐を吐きそうになりながら作業をして、心に強いストレスを感じながら人間関係に悩む。それが終われば束の間の休息と言って大したこともせずに怠惰に過ごす。

極めつけは財布や銀行預金の通帳を見てため息をつき、本当は今にも逃げ出したい思いを抱えながら「仕方がないことなんだ」と自己催眠をかけて仕事へと戻る。

 

ベイトマンのように猛烈に働いて裕福になっているわけでもなく、エドワードのように精神的に自由でもない。

何故、多くの日本人がエドワードのような生き方を望みながらもベイトマンのような生き方をしているのか?

そもそも何故、精神的にはベイトマンなのに働き方はエドワード、というようなクソッタレな生き方が蔓延しているのだろうか?

基本的に日本人は怠惰である

 日本人が勤勉だなんて皇国神話を作った人間が作り上げたお粗末な幻想にしか過ぎない。私が見ている範囲だけであれば日本人は基本的には怠惰で、他者から強制されない限りは動かない人種である。

 

私が勤めいている会社の人間たちの話をしよう。

会社に所属している人間たちも例にならって怠惰である。基本的に仕事したくない、給料が貰えればそれで良い、余暇が何よりも重要。会社に束縛されたくない、自分の人生を生きていたい。

先にも出してように、エドワードの生き方を望む代表的な人間たちである。まるで無欲のようで、その心は禅に見えるかもしれない。しかしそれはとんだ勘違いだ。

 

彼らの口癖は「金がない」「給料を上げてほしい」だ。それもそうだ、みんな借金漬けで毎月の返済で最低でも給料の30%近くを失っている。

いや別に金が欲しいというのは良い、正常な欲でありそれは人生をより良い方向へ進める。ただ、それに伴う働き方をしていない。

相応に働かないけど金をくれ、余暇はダラっと過ごす、それが彼らのモットーであり本命の生き方で、それが「自分の人生を生きる」ことらしい。

 

そんな彼らは意欲的に働く私をまるで金の亡者を見る目で見る。浅はかで空虚な富を追い、贅沢ばかりして足るを知らず、欲に染まりきった人間、そんな目で私を軽蔑しているに違いない。

先日、会社の飲み会で毎月いくらお金を使っているのかの会話になった際、会社の人間たちの金遣いの粗さに驚いた。

彼らは毎食贅沢をし、隙あらば酒を飲み、趣味にウンとお金をかける。毎月の手取りは十数万しかないのに、毎月10万円もの大金を消費し、そこからさらに借金の返済をして、残る金は4桁。

対して私はその話をした前月に使ったのは3万2千円である。これは使用した金額を全て足した総額である。現実はこんなものだ。

 

前述したように生きていくだけのお金を稼ぐならば誰でも組織に属さずに可能である。でもそれはしないのは、彼らが無知なだけか、はたまたそこまでの努力をしたくないのか、もしくは常識的な幸せしか追い求めることができないからである。

他者の定義の中でしか生きられない

 

 日本人がそういった生き方をする理由がもう一つ。それは自分で自分の人生を生きることができず、他者の定義の中でしか生きることができないからである。

 

彼らは生きる上でお金が必要だと知っており、そのために働かなければならないことも知っている。だからこそ人生の三分の一という莫大な時間を労働に捧げているベイトマンたちである。

でも現実はそこまで働かなくても生きていける。人生の三分の一を捧げなくても人は暮らしていける。

エドワードの生き方を望む彼らがそれをしないのは何故か?定義からはみ出すことが怖いからだ。はみ出してしまえば自分が不幸になると思い込んでいるからなのだ。

 

 日本は非常に裕福な国である。人口減少による経済の先細りはあれど、今はまだ世界有数の経済大国である。そんな日本においては年収200万もあれば美味しい食事も、安心して暮らせる寝床も、さほど不自由なく趣味にも打ち込める。

エドワードのように精神的な自由を闊歩し生きていくことは十分に可能。でもそれをしないのは、勤勉に会社に勤め、安定した給料を貰い、いい人と結婚して家庭を築き、マイホームか賃貸かを問わずに根城を作り、子どもたちが巣立ったら夫婦ふたりで細々と暮らす。

そのレールから外れてしまうことは不幸なことなのだと、何がなんだかよくわからない恐怖感に支配されているからなのだ。

 

こんなものはツバを吐きかけるべきである。他者から定義された幸せを求めるということは、他者が作り上げた人生を生きる他ならない。自分の人生を生きなければ、それは生きているとは言わず、身体のみが動いている死体、ウォーキング・デッドだ。

 

全ては心の持ちよう次第なのだ。

私は会社員ではあるが働きたくて今の会社で働いているのだから、決してベイトマンみたく追われて仕事をしているわけではない。もちろん、長時間の労働を強いられることはあって、その時は辛いと感じている。

だが私はいつだって会社を辞めたって良いと考えている。この会社に食わせてもらわなくても大丈夫であり、何なら私が働かなければこの会社は困るとすら思っている。

この会社で成したいことがあるから働く。給与を貰うためだけに働いているわけではなく、生きていくだけならば他にもっと楽な仕事がある。

これが出来るのはドグマに囚われていないからであって、私に能力があるわけではない。自分に忠実に生きる、こうした自己本位な心の持ちよう次第で出来るのだ。

人間は幸せになれずにはいられない

 人間は何のために生まれてきたかと問われれば、私は幸せになるために生まれてきたのだと答える。誰しもが幸せを望み、幸せを追い求めるのである。ただ現実はあまりに苦労が多すぎて、多くの人間が成長の途中で幸せになることを中途半端に諦める。

 

多くの日本人が他者が定義した幸福というドグマに従い、その果てに疲れ切ってしまい、労働に身体も心も囚われがんじがらめになっている。だがそれでも人間は幸せを求めずにはいられない。心では幸せを渇望し追い求める。でも多くの人が幸せになりたいのに、何が幸せなのかすらわからない。

 

 あなたの時間は限られている。だから他人の人生を生きたりして無駄に過ごしてはいけない。ドグマ(教義、常識、既存の理論)にとらわれるな。それは他人の考えた結果で生きていることなのだから。他人の意見が雑音のようにあなたの内面の声をかき消したりすることのないようにしなさい。そして最も重要なのは、自分の心と直感を信じる勇気を持ちなさい。それはどういうわけかあなたが本当になりたいものをすでによく知っているのだから。それ以外のことは、全部二の次の意味しかない。

 

スティーブ・ジョブズ

 

 大事なことは自分で人生を見出すことである。そうでなければそれは欺瞞の人生である。

いくら本を読んだって、勉強をしたって、自分で自分の人生を生きなければ無駄なのだ。そういった努力ではない。自分の人生を生きるという努力が必要なんだ。

自分で自分の人生を定義して生きる。それがわからなければ、そう生きようとする人達のことは一生理解できまい。

 

この作品は、二人の相対する生き方を対比した作品である。二人のうち、どちらかの方が幸せ、というのは決めつけられない。

だが共通するものとして、エドワードもベイルマンも、幸せを追求するために自分で環境を選んでいる。

幸せを追い求めることも、自分の人生を生きることも、何もせず中途半端な事をして自分の首を絞めている人間に両者を論ずる資格は無い。

人生の秘訣とは、自分でそれを見つけないと意味がないのだ。

サマセット・モーム

一見すると、自分の人生を生きようとする者は、そうでない者にとって転落しているかのように見えるかもしれない。